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    2015年06月

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    1: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/ 2015/06/26(金) 17:23:31.34 ID:???*.net
    カウボーイハットにブルロープで会場狭しと暴れ回り一世を風靡した、“不沈艦”スタン・ハンセン。ウエスタン・ラリアットを武器に、
    猪木、馬場はもとより、天龍源一郎、三沢光晴とも死闘を繰り広げてきたのもいまだ記憶に新しい。
    そんなハンセンが三沢のメモリアルツアー参加のために緊急来日。
    そこで週刊アサヒ芸能がインタビューを敢行。現役時代から私生活まで全てを明かした。

    ── 今回は2009年6月13日に亡くなった三沢光晴さんのメモリアルツアーへの来日ですね。

    ハンセン 三沢が亡くなったことはいまだに信じられない。三沢のことは若い頃から知っているが、状況の変化によって短期間でトップにならなければいけなかった。
    普通の人間だったら責任感、プレッシャーに潰されてしまったかもしれないが、彼はみごとにやり遂げたよ。

    ── 三沢さんは何度も叩きつけられながら、92年6月、ついにハンセンさんを倒して三冠王者になりました。

    ハンセン 私は三沢にトップのポジションを譲るつもりはなかったから、彼を本気で叩きつけた。
    本当にトップに立ちたいなら、実力で上がってこいというのが私のスタンスだった。
    そして彼は何度も立ち上がり、しだいに私を越えるようになった。彼は実力と諦めない心で真のトップに立った。

    ── 三沢さんが設立したプロレスリング・ノアには初めての参加ですが、全日本プロレスで闘った懐かしい選手もいたでしょう。

    ハンセン 私が主戦場にした全日本から分かれた団体だが、知っているメンバーは少なくなってしまったね。社長の田上(明)とは闘ったし、タッグも組んだ。
    副社長の丸藤(正道)はデビューしたばかりの新人だったな。あと、知っているのはヤングボーイだった小川(良成)ぐらいだよ。

    ── それこそ田上社長は新人時代、ハンセンさんのことが怖くて、いつもシリーズ中に対戦する試合数を数えていました(笑)

    ハンセン (日本語で)ゴメンナサイ(笑)。でも田上は若い頃から強かったよ。

    ── 振り返ると、ハンセンさんの初来日は40年前の75年9月でした。当時の日本の印象はいかがでしたか?

    ハンセン 当時はまだアメリカ本土からの直行便の飛行機がなくて、ホノルル経由で羽田空港に到着したんだ。
    羽田から銀座のホテルに向かうバスから見た景色は、映画で見たゴジラが破壊する街並みと同じで、すごくおもしろかった(笑)。
    当時の私は26歳の若さで、日本が初めての外国だったから、レフェリーのジョー樋口さんにお世話になった。
    ジョーさんはすばらしい人物だった。このことは絶対に書いておいてほしい。

    ── 今でこそ、日本食を何でも食べるハンセンさんですが、その当時は大丈夫だったんですか?

    ハンセン 日本食を食べるようになったのは、82年に新日本から全日本に移籍してブルーザー・ブロディと一緒になってからだね。
    ブロディはハワイ出身で日本通のキング・イヤウケアというレスラーから日本食のおいしい店をたくさん教わっていて、そこに私を連れていってくれた。
    それで、私も日本食が好きになったんだ。刺身を克服するのには時間がかかったけど、今は毎朝、納豆を食べているよ。

    http://www.asagei.com/excerpt/38341
    Posted on 2015年6月24日 5:56 PM



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    1: シャチ ★@\(^o^)/ 2015/06/25(木) 18:23:21.79 ID:???*.net
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150625-00000059-dal-fight
    全日本プロレスの3冠ヘビー級王者・曙が25日、横浜市内の事務所で、団体創設者である
    故ジャイアント馬場さん夫人の馬場元子取締役相談役から馬場さんの愛車だったキャデラックを譲り受けた。
    曙は以前から元子相談役の意向を聞いていたというが、4月のチャンピオン・カーニバル制覇、
    5月の3冠王座奪回の際は丁重に断っていたという。
    「滅相もないと。チャンピオンになったからといって乗れるものでもないし。でも(6月21日に)1回防衛して、
    いただくことになった」と恐縮しながら、元子取締役から鍵を受け取った。

     99年1月に死去した馬場さんが98年5月に登録したクリーム色のキャデラックはナンバーが代名詞・
    16文キックの『16』。元子相談役は「次から大型のキャデラックは製造されないということで購入した。
    ナンバーは馬場さんが好きな数字」と明かし、曙への譲渡について「私が知ってるチャンピオンはみんな大きい人。
    馬場さんも喜んでると思う。早くこういう人に出てきて欲しかった。私たち(夫婦)も(曙の故郷)ハワイが好きだし、
    いろんな意味で乗ってくださればうれしい」と笑顔でコメントした。

     早速、乗り心地を確認した元横綱は「最高。やっぱり昔の車はいい。イスは柔らかいし、
    (車内が)広い」と目尻を下げ、「これで会場に行っていたずらされるのが怖い。
    毎日磨いて、練習時間が短くなるかも」とおどけた。

     もちろん、身が引き締まる思いだ。「馬場さんとの接点は3つめ。全日本の取締役になって、
    3冠王者になって、車もいただいた。相撲から入って、プロレス界のことは分からないけど、
    奥さま(元子相談役)が馬場さんとの思い出話をしてくれる。申し訳ないけど、僕でよかったら喜んでいただく。
    これからも全日本プロレスの横綱として、もっと練習して、
    とんでもないチャンピオンになりたい」と真剣な表情に変わって、誓いを立てた。



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