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    1: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/ 投稿日:2015/06/28(日) 12:17:08.76
     7・5大阪城ホールで矢野通との一騎打ちに臨む新日本プロレスのエース、棚橋弘至。
    その棚橋が初のフォトブック『1/100 The one-hundredth(ジ・ワンハンドレッス)』(扶桑社)の中で、棚橋の立命館大学プロレス同好会の先輩・ユリオカ超特Qをホストに、
    高校時代からファンだという鉄人・小橋建太と激熱トークを繰り広げている。

    このフォトブックでギリシャ彫刻のように立派な肉体美を披露している棚橋だが、あくなき肉体改造への探究心で知られる小橋と熱望していたのが「筋肉トーク」。
    当時、どんなトレーニングや食事をしていたのか棚橋が小橋に“取材”しようとしたところ、故ジャイアント馬場さんの仰天エピソードが飛び出して……!

    小橋:トレーニングも、昔はとにかく根性だったから。「疲れてもやれ」「ケガをしたら練習で治せ」って言われてたくらい。

    棚橋:痛めますね、余計に。

    小橋:治るわけない(笑)。でも馬場さんの教えだしね。

    棚橋:小橋さんの時代は、ウェイトトレーニングの情報も今ほど公開されていなかったですよね。

    ユリQ:馬場さんから「トレーニングするな」と言われていたとか。

    小橋:馬場さんがたまたま路地裏で、すごい筋肉の男たちがキスしていたのを見てしまって。それで誤解したみたい(笑)。
    そりゃあ、馬場さんみたいに身長があればいいけど、オレはそこまで身長があるわけじゃないから、横に大きくするしかなかった。

    棚橋:僕も一緒です。

    小橋:ただ、トレーニングの成果がリングで出てきて体も変わってきたら、馬場さんも「あれは悪いことじゃないんだ」と気づいてくれて(笑)。
    軽井沢の別荘で、「バーベルやるか!」と言われて、一緒にやってたな。

    棚橋:膝のケガとの付き合い方はどうでした? 小橋さんの歴史でもあるじゃないですか。膝にボルトを入れたり。

    小橋:膝が痛くて、寝られないことがよくあったよ。痛み止めの薬はあったけど、最後は3錠のんでも効かなかった。薬に対する免疫がついちゃうんだよね。
    オレがまだ若手で馬場さんの付き人をやっていたとき、試合前の練習で半月板を打ちつけて歩けなくなったんだ。
    馬場さんから「レスラーはどんなときも休んじゃいけない」と教育を受けていたから、休む気はなかった。
    だけど、足を引きずっているオレを見て馬場さんが「今日は休め」と。オレは「出ます」。「休め!」「出ます!」「休め!」「出ます!」って押し問答になって。
    しまいには馬場さんが「このオレが休めって言うんだから休め、このヤロー!」って怒って。

    棚橋:あの馬場さんが激昂!

    小橋:「今日来てくれるお客さんはお前を観にくるんじゃない。ジャンボ鶴田、天龍(源一郎)、タイガーマスクを観にきてるんだ。だからお前は休める。
    だけどお前がトップに立ったときはもう休めないんだよ。だから今は休め!」と。
    そのころのお客さんはオレのことなんてまだ知らないから。でもそれが悔しくて。
    その後、スタン・ハンセンにパイプ椅子で腕をぶん殴られて22針縫った(1995年8月秋田県での試合)とき、病院で処置を終えてホテルに戻ったら、
    馬場さんがロビーで葉巻を吸っていて。
    さすがにオレも翌日の試合は欠場されられると覚悟したよ。「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げたら、馬場さんはオレの顔を見てニコッと笑って。
    翌日のメインイベントには、オレの名前が入ったままだった。馬場さんがオレのことをトップ選手だと認めてくれたのかなって。

    小橋とジャイアント馬場のエピソードに、棚橋とユリQは「熱いなかにも爽やかさが光る、秀逸エピソード」と感動。
    激熱トークはまだまだ続いたのであった……。

    http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150628-00882586-sspa-soci
    週刊SPA! 6月28日(日)9時21分配信

    http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150628-00882586-sspa-soci.view-000



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    1: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/ 2015/06/26(金) 17:23:31.34 ID:???*.net
    カウボーイハットにブルロープで会場狭しと暴れ回り一世を風靡した、“不沈艦”スタン・ハンセン。ウエスタン・ラリアットを武器に、
    猪木、馬場はもとより、天龍源一郎、三沢光晴とも死闘を繰り広げてきたのもいまだ記憶に新しい。
    そんなハンセンが三沢のメモリアルツアー参加のために緊急来日。
    そこで週刊アサヒ芸能がインタビューを敢行。現役時代から私生活まで全てを明かした。

    ── 今回は2009年6月13日に亡くなった三沢光晴さんのメモリアルツアーへの来日ですね。

    ハンセン 三沢が亡くなったことはいまだに信じられない。三沢のことは若い頃から知っているが、状況の変化によって短期間でトップにならなければいけなかった。
    普通の人間だったら責任感、プレッシャーに潰されてしまったかもしれないが、彼はみごとにやり遂げたよ。

    ── 三沢さんは何度も叩きつけられながら、92年6月、ついにハンセンさんを倒して三冠王者になりました。

    ハンセン 私は三沢にトップのポジションを譲るつもりはなかったから、彼を本気で叩きつけた。
    本当にトップに立ちたいなら、実力で上がってこいというのが私のスタンスだった。
    そして彼は何度も立ち上がり、しだいに私を越えるようになった。彼は実力と諦めない心で真のトップに立った。

    ── 三沢さんが設立したプロレスリング・ノアには初めての参加ですが、全日本プロレスで闘った懐かしい選手もいたでしょう。

    ハンセン 私が主戦場にした全日本から分かれた団体だが、知っているメンバーは少なくなってしまったね。社長の田上(明)とは闘ったし、タッグも組んだ。
    副社長の丸藤(正道)はデビューしたばかりの新人だったな。あと、知っているのはヤングボーイだった小川(良成)ぐらいだよ。

    ── それこそ田上社長は新人時代、ハンセンさんのことが怖くて、いつもシリーズ中に対戦する試合数を数えていました(笑)

    ハンセン (日本語で)ゴメンナサイ(笑)。でも田上は若い頃から強かったよ。

    ── 振り返ると、ハンセンさんの初来日は40年前の75年9月でした。当時の日本の印象はいかがでしたか?

    ハンセン 当時はまだアメリカ本土からの直行便の飛行機がなくて、ホノルル経由で羽田空港に到着したんだ。
    羽田から銀座のホテルに向かうバスから見た景色は、映画で見たゴジラが破壊する街並みと同じで、すごくおもしろかった(笑)。
    当時の私は26歳の若さで、日本が初めての外国だったから、レフェリーのジョー樋口さんにお世話になった。
    ジョーさんはすばらしい人物だった。このことは絶対に書いておいてほしい。

    ── 今でこそ、日本食を何でも食べるハンセンさんですが、その当時は大丈夫だったんですか?

    ハンセン 日本食を食べるようになったのは、82年に新日本から全日本に移籍してブルーザー・ブロディと一緒になってからだね。
    ブロディはハワイ出身で日本通のキング・イヤウケアというレスラーから日本食のおいしい店をたくさん教わっていて、そこに私を連れていってくれた。
    それで、私も日本食が好きになったんだ。刺身を克服するのには時間がかかったけど、今は毎朝、納豆を食べているよ。

    http://www.asagei.com/excerpt/38341
    Posted on 2015年6月24日 5:56 PM



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